「10分で終わらせた仕事」の価値と、AIで変わるプログラマーの時間感覚

10分の成果に込められた10年の重み

「そんなに早く終わるなら、もっと安くしてよ」

これは、あるプログラマーが作業を短時間で終えたときに、クライアントから投げかけられた言葉です。そのプログラマーは静かに答えました。

「この10分のために、私は10年間努力してきたんです」

この逸話は、プログラマーに限らず、職人・エンジニア・アーティストなど、あらゆる専門職に共通する「成果物の裏にある経験の重み」を伝える寓話として、世界中で語り継がれています。

しかし、現代の私たちは、さらに複雑な「時間の価値」の問いに直面しています。AIがプログラミングの生産性を劇的に向上させる今、この逸話は新しい意味を持つようになりました。

『人月の神話』が指摘した「生産性」の幻想

1975年、フレデリック・ブルックスは『人月の神話』で、ソフトウェア開発における「人月」という単位の非現実性を鋭く批判しました。

妊婦を9人集めても、1ヶ月で子どもは生まれない。

この比喩は今でこそ使い方に配慮が求められるものの、当時はソフトウェア開発における『人月』という非現実的な概念を打ち砕く象徴として広く共有されてきました。人数を増やすことで比例して進捗が早まるという幻想を打ち砕きました。ソフトウェア開発には「順序性」や「相互理解」が不可欠であり、単純な掛け算では測れない世界である、と。

ブルックスの主張は50年近く経った今でも本質的に変わっていません。登場人物が「AI」という新しい存在に置き換わった点を除けば。

DevinやCodeRabbitが変える「10分の意味」

Devin(Cognition)やCodeRabbitのようなAI開発支援ツールは、人間の「書く」行為だけでなく、「考える」「調べる」「設計する」工程にも踏み込んで支援する存在です。

AIは一夜にして「10分で終わる作業」を人間より高速にこなすようになり、しかも「10年間の経験」を持たないままにそれを実現しています。

AIによる加速がもたらす世界で、人間の「経験の価値」はどう位置づけられるべきなのでしょうか?

これから問われるのは「何に10年かけるのか」

AIによって、コーディング作業の大部分が自動化される未来が近づいています。システム全体の構造を俯瞰した設計、曖昧な要件の言語化、関係者間の利害調整、未来の変化に耐えうる選択―これらの能力は、依然として人間の領域にあります。

しかし実際には、要件をヒアリングし、未来の変化に耐えうるアーキテクチャの言語化・ドキュメント化についても、AIによる実現が現実的になってきています。関係者間の利害調整についても同様です。

すでにバイヤーの立場でサプライヤーと価格交渉を行うAIが広く使われています。メールやさまざまなインターフェースを通じて、交渉業務でもAI化が進む可能性は高いでしょう。

課題を発見し、問いを立てて、追求していくドライブは人間に残りますが、一連の活動を模倣するAIも技術的には構築可能です。

「何に10年かけるのか」をどう前向きに考えていけばいいのか、正直なところ、答えは見つかっていません。

経験の価値を再定義する時代へ

AIが生産性を高める時代において、経験とは「手を動かす技術」以上に、問いを立て、判断し、チームを導く力へとシフトしています。10年かけて育てるべきは、「コードを書く腕」ではなく、コードがもたらす影響を見通し、意義ある方向に導ける視座なのかもしれません。

何より大切なのは、AIと人間が協働する新しい形を模索し続ける姿勢です。答えが見えない時代だからこそ、不確実性を受け入れながら、変化に適応していく柔軟性こそが、これからの10年で磨くべき最も価値ある「経験」なのかもしれません。